やがて書きあぐねし凡情

=今日も何もなかった=

7月のある暑い日、なぜ彼女は外出したのか?

ひとりの女性の動向を探るとストーカー扱いされますが、相手が故人だと批判されることはありません。彼女が何月何日にどこに何をしに行ったのか探っていきましょう。

f:id:keynuu773:20190503080618j:plain

私のブログでは既に3回目の登場となる歌人の中原綾子ですが、彼女は詩集「灰の詩」(昭和34年刊)の中で、次のような作品を書いています。 

「昼顔の花」

もとより未知の人ですが 

死刑囚から手紙がきました

つたない歌を見て下さい

累々とつづった文の哀れさ

私は二日考へてから

長い返事を出しました 

喜んでまた手紙がきました

歌も上手になってゐました

〈以下略〉

f:id:keynuu773:20190503080551j:plain

 死刑囚との文通が始まる

こうして死刑囚との文通が始まります。なぜ死刑囚が綾子の住所を知り得たかは不明ですが、芸能人の住所すら雑誌の付録に載っていた時代ですから、個人情報には誰もが無頓着だったのでしょう。 

やがて死刑囚の送ってきた短歌を添削しては返すということを続け、しだいに死刑囚は短歌の腕が上達していきます。 

ところが二カ月も経った頃、死刑囚から手紙が届きます。その描写が次のとおりです。 

 

彼は

ちかぢか仙台へ移送されると告げてきました

露の宮城野

刑場のある所ださうです

子供を抱いた写真一枚

わが師に托すと送ってきました

嘗つては彼も小市民

善良さうを人なのに

幸福さうな親だのに

宿業とかは無慚です

f:id:keynuu773:20190503081541j:plain

 死刑囚との面会を決意する

この便りを読んだ綾子は思い切って葛飾小菅の刑務所まで会いにいくことにしました。現在の東京刑務所があるところです。相手は死刑囚とはいえ、文通を重ねるうちに情が沸いてきたのでしょう。 

面会に行った日は、この詩の中では「七月初旬暑い日でした」とあります。私はこの7月初旬がいったい何日だったのかが気になり調べてみることにしました。 

「昼顔の花」では刑務所の長い塀の横を歩く描写があります。かつての夫・小野俊一を回想しながら道端の昼顔の花に涙するというものですが、この中に雨が降っている描写はありません。それどころか炎天下を彷彿させる描写すらあります。 

keynuu773.hatenablog.com

綾子は何月何日に面会にいったのか

気象庁のHPを調べると、当時の気象データを調べることができます。「灰の詩」の「あとがき」によると、昭和33年の6月から11月にかけて書き上げた詩とありますので、この面会は昭和33年7月であったと特定しても差し支えないでしょう。 

調べたところ、昭和33年7月初旬の東京の気象は次のとおりでした。 

日付

曜日

最高気温(℃)

最低気温(℃)

降水量(㎜)

10分間の降水量

1日

29.4

23.9

0.4

0.1

2日

25,2

21.1

4.1

0.3

3日

31.9

21.9

0

0

4日

29.1

24.3

30.6

4.0

5日

29.7

21.2

0

0

6日

27.0

22.1

0.1

0

7日

31.5

22.9

0.6

0.3

8日

27.9

21.4

0

0

9日

25.5

19.4

0

0

こうしてみると、昔は気温がずいぶん低かったことが分かります。ちなみに2018年7月1日の最高気温は32℃、最低気温は25.4℃でした。また2018年は7月に熱帯夜(最低気温が25℃以上)が実に20回もありましたが、昭和33年7月は、熱帯夜が一度もありません。そもそも「熱帯夜」という言葉自体もなかったことでしょう。  

【2019年本屋大賞 大賞】そして、バトンは渡された

【2019年本屋大賞 大賞】そして、バトンは渡された

 

さてデータを眺めると、雨がまったく降っていないのが3日、5日、6日、8日、9日です。このうち最も気温が高いのは3日の31.9℃です。他に7日が31.5℃ですが雨が降っています。その次が5日の29.7℃。この日は晴れています。ただしこの日は土曜日です。 

現在の規則では面会日は「原則的に面会は土日祝を除く平日の日中」とされていますから、当時も土曜日の面会は行われていないと考えられます。8日、9日は気温が27℃、25℃とすこし低いようです。そうなると7月初旬の暑い晴れの日は、3日に絞られてきます。梅雨の時期ですから、雨が続いたことでしょう。綾子は梅雨の合間を縫うようにして、刑務所に向かったのではないでしょうか。 

 

keynuu773.hatenablog.com

 まとめ~綾子は死刑囚に会えたのか

それでは7月3日に東京刑務所まで死刑囚に会いに行った中原綾子ですが、はたして彼には会えたのでしょうか。「昼顔の花」は次のように締めくくられています。

 

冷たい汗と涙を拭いて

やうやう先にまゐりましたが

訪ねる人は居ませんでした

きのふ

宮城へ行きましたって

 どうやら一日違いで会えなかったようです。いつ仙台に移送されるか分からない状況ですから、綾子としては一日も早く会いたかったはずです。しかし気象データを見ると、7月1日~2日はあいにくの雨模様。綾子は雨を嫌って日延べしたのかもしれません。なにしろ和服姿ですから、当然躊躇するでしょう。 

もしも1日か2日が快晴であったなら、綾子が東京刑務所で死刑囚との面会を果たしていた可能性があります。死刑囚は綾子が会いに来てくれることを知る由もなかったでしょうが、まさに無情の雨となったのです。