やがて書きあぐねし凡情

=今日も何もなかった=

中原中也から学ぶ!別れ際の哲学

「別れ」をテーマにすると、私はいつもある光景を思い出します。今から30年以上も前のことです。同僚たちと飲み明かした後の帰宅途上、公衆電話ボックスの中から「アケミ、俺を捨てんでくれ」と叫ぶ男の声が聞こえてきたのです。あまりに悲壮な叫びだったので、その見知らぬアケミという人に、なんとかしてあげてよと思ったものです。

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 中也はどうしたか

本日取り上げるのは「別れに際して中原中也はどうしたのか」という話です。大正13年、京都に住んでいた当時17歳の中原中也は、三歳年上の女優・長谷川泰子と同棲を始めます。そしてその翌年、自らのスキルアップのために2人で上京して、新宿~中野で同棲生活を続けます。 

上京したのは大正14年3月。その一か月後には因縁の相手である評論家・小林秀雄に出会います。中也としては、当時のあこがれの相手でしたから、何度も小林の家を訪ねて、文学論を交わしました。その交遊の間に泰子も同席することもあり、小林の目に留まったのです。 

やがて小林が泰子を口説くうちに、泰子の心も揺れ動いていきます。一度は大島旅行を企画し了承を得ますが、泰子はドタキャンをします。その後も泰子は二人の間で心は揺れ動きますが、ついにこの年、つまり大正14年11月11日に泰子は小林が住む一軒家に引越しをすることになります。  

 小林秀雄の決意

小林はそのために、母と妹の三人暮らしだった実家を出ます。その時の小林の様子を妹は次のように述べています。 

兄が新しく家をもつために、 一つだけ残っていた大きな書架もその中の日本古典全集も、 残り少ない父が好きだった陶器も、昔の道具類も、全部金にかえられた。何もなくなってがらんとした座敷に、兄は大風呂敷をひろげ、自分の布団をたたんで、荷物ごしらえをしていた。 私はふくれっ面をしながら、その中に本やわれ物を突っこんで手伝った。 

母は黙って、捨てられたような淋しさを、やせた背中にみせながら、ほそぼそと兄の衣類や下着類を戸棚からよりわけて風呂敷に包んでいた。 

兄の新居は、 高円寺駅の家とは反対側の線路際にある、三間ぐらいの小さな貸家であった。

           

「兄 小林秀雄高見沢潤子(新潮社)より

中原中也詩集 (新潮文庫)

中原中也詩集 (新潮文庫)

 

 中原中也の当日の様子

さていよいよ泰子が中也の元を去る日、そのとき中也はどのような態度をとったでしょうか。この日は秋晴れの空でしたが、気温が前日より下がり最高気温が13℃という、少し寒い日でした。中也は「わが生活」の中で次のように述べています。 

私はほんとに馬鹿だったのかも知れない。 私の女を私から奪略した男の所へ、女が行くという日、私もその日家を変えたのだが、 自分の荷物だけ運送屋に渡してしまうと、女の荷物の片附けを手助けしてやり、おまけに車に載せ難いワレ物の女一人で持ちきれない分を、私の敵の男が借りて待っている家まで届けてやったりした。

 つまり当日自分も他所に引越しするにも関わらず、泰子の荷物の片づけを手伝ったというのです。一説には中也自身が荷車を押して小林の待つ家まで行ったというものがありますが、それは泰子自身の証言から否定されています。 

「ワレ物を男が借りている家まで届けた」とあるのは、引越し当日ではなく、日を改めての話です。「わが生活」から引用してみましょう。 

もう11月も終り頃だったが、 私が女の新しき家の玄関に例のワレ物の包みを置いた時、 男は茶色のドテラを着て、極端に俯いて次の間で新聞を読んでいた。 私が直ぐ引返そうとすると、女が少し遊んでゆけというし、それに続いて新しき男が、ちょっと上れよというから、 私は上ったのであった。

 中也は、ワレ物を泰子に渡すために小林の家を訪ねて、お茶まで飲んで帰ったようなのです。こうした心情は凡人にはとても理解できるものではありません。もっとも中也自身も葛藤はあったようで、この頃の自分をしきりに「口惜しき人」になったと表現しています。 

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫)

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫)

 

 その後どうなったのか

中也の泰子への思いは捨てさり難かったようで、その後も小林が大学に行っている間を見計らって、何度も泰子のもとを訪ねています。これには泰子もさすがに辟易したのか、やがて小林と共に鎌倉に引越します。 

しかしその泰子と小林も3年後に破局を迎えます。泰子の「出ていけ」の一言で、小林は二人の住まいを出ていったのです。 

これを知った中也は泰子に金を渡し、彼女を迎える家まで借りています。今の感覚で考えるとストーカーと言われそうですが、詩人中也の感性は、そうした凡人の発想を飛び越えたところにあるようです。  

小林秀雄はどう思っていたのか

中也の親友という立場でありながら、最愛の恋人を中也から奪った小林は、中也に対してどのような思いを抱いていたでしょうか。 

その後中也の死を知った小林は次のような一文を残しています。 

あゝ死んだ中原

僕にどんなお別れの言葉が言へようか

君に取返しのつかぬ事をしてしまったあの日から

僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった

(1937年12月 文学界・「死んだ中原」より)

 小林は中也の死を悼んでいます。中也の詩の棄の理解者の一人でもあった小林の心情は、懺悔の念でいっぱいだったのです。  

小林秀雄と中原中也 (講談社文芸文庫)

小林秀雄と中原中也 (講談社文芸文庫)

 

 死の間際、中也は泰子に会えたのか

中也はその後お見合いで結婚して、一児をもうけますが、残念なことに幼くして失くしてしまいます。その後、結核性脳膜炎のため30歳の若さでこの世を去ります。 

一方の泰子も他の男性と結婚をしたために、二人の付き合いはしばらく中断することになります。しかし、泰子の元に中也危篤の知らせが入り、急いで見舞ったのが死の前日でした。そのときの様子をインタビューで次のように語っています。 

  私、(死の)前の日に行ったもの。電話がかかってきたか、電報が来たからね。

(そのときの様子は?)

   自分で手をこうやって、書いているような感じだった。そこへ大岡(昇平)がくるわけです 。そしたらワッと泣くんですね。

(不覚にも涙をこぼしたって書いていましたが)

  不覚じゃなくて、開けっ放しに泣いていましたよね。

國文學」1977年10月号(學燈社)より

 親友である大岡昇平が臨終の中也に接していきなり泣き出したというのに、案外と泰子は大岡の様子を冷静に観察しています。ただこのインタビューの最後に「今日は中也に新しいビールを注いであげたい」と語っていたのが救いです。  

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 おわりに

中原中也の「頑是ない歌」をモチーフにして作られた「思えば遠くへ来たもんだ」には次のような歌詞があります。 

二十歳になったばかりの僕は別れた女を責めながら

いっそ死のうと泣いていた 恋は一度と信じてた

 この歌はいみじくも中也自身の心情を歌ったようにも思えます。中也の行動があまりにしっかりしているので、つい一人前の大人と考えがちですが、泰子と別れたとき、中也はまだ18歳の青年です。その後も本気で愛した女性が現れていない中也にとって、長谷川泰子は生涯ただ一度の恋の相手だったのかもしれません。

その意味では、中也は泰子と別れた意識など微塵もなく、「別れ際」などなかったということなのでしょう。死に際こそが「別れ際」だったのです。