やがて書きあぐねし凡情

=今日も何もなかった=

ダジャレ親父はラッパーだった!

職場の上司や家族の中に駄洒落を連発する人はいませんか。「布団がふっとんだ」「こんにゃくは今夜食う」「下手な洒落はやめなシャレ」とか言われても、うざいばかりでちっとも面白くありませんよね。しかし安易に侮ってはいけません。そのダジャレ親父は、エミネムやジェイ・Zと同じラッパーかもしれないのです。

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アメリカの曲は歌詞が少ない

テイラー・スイフトの新曲「ME!」がリリースされました。男女の軽妙な掛け合いと言葉遊びがとても面白いですね。言葉遊びというのは、こんな感じです。 

team”って単語に”I”はないけど”me”はあるよね

awesome”って単語は”me”なしでは成立しない 

 この曲を分析すると『A+B A+B B+C B+C』という構成で成り立っています。典型的な現在の米国音楽界の流れを汲むものです。このABC の構成のうち、BとCのパートはほぼ同じ歌詞です。Aのパートだけが、1番と2番で異なる歌詞を用いているのです。つまり米国の曲は歌詞の量が少ないので容易に覚えられるのです。 

keynuu773.hatenablog.com

 日本の歌は覚えるのが大変

翻って日本の歌詞をみてみると『A+B+C A+B+C A+B+C』という流れが主流です。これにB+Cがリフレインされる場合もあります。しかし米国と大きく異なるのは、最期のサビのリフレインを除き、ABCのパートは、それぞれ1番、2番、3番ですべて違う歌詞を用いている点です。もちろん例外は多くありますが、歌詞を覚えるという点では、日本の歌手は大変な苦労をしているということになります。

韻の存在が作詞を困難にした

米国の音楽も昔からこんな調子ではありませんでした。むしろ現在の日本のような構成で歌われて、Cのパートだけが同じ歌詞を用いることが多かったのです。 

これが変化し始めたのが80年代に入ってからですラップの台頭によって、ポップスにおいても歌詞の韻を踏むという流れが生まれはじめました。つまり歌詞の内容そのものよれも心地よく感じる方を優先するようになったのです。 

でもそうなると、歌詞を考える方は大変です。文字数と韻を踏むという縛りに四苦八苦することになります。こうしたことが一因で、米国ではAのパートだけ歌詞を変えて、しかもAのパートは後半には登場しないという流れが生まれてきたのです。

 日本でも昔から韻を踏んでいた歌がある

日本の音楽では、ほとんど韻を踏んだものがないと考えられています。だから日本の音楽は米国で通用しないのだという人もいます。ところが、日本でも古くから韻を踏んでいる歌があるのです。 

千曲川旅情の歌」という明治38年に発表されたものです。この歌の作詞はあの著名な島崎藤村です。これは「小諸なる古城のほとり」という詩がもとになって作られた歌です。その一部を紹介しましょう。 

小諸なる 古城のほとり

雲白く 遊子(ゆうし)悲しむ

緑なす 蘩蔞(はこべ)は萌えず

若草も 籍(し)くによしなし

しろがねの 衾(ふすま)の岡辺(おかべ)

日に溶けて 淡雪(あわゆき)流る

 この詩が韻を踏んでいると指摘したのが、詩人の三好達治です。この詩をローマ字変換してみると、三好の主張が理解できます。

KOMORONARU KOJONOHOTORI (小諸なる 古城のほとり)

 三好は、歌詞の一行目に「O」が8度も登場していることが、この詩が大衆に指示された要因だというのです。  

 韻を踏むのは後ろだけではない

しかし、それがなぜ韻なのかと思われた方もいるでしょう。実は「韻を踏む」というのは、ラップの基本である後ろを合わせるという手法ばかりではありません。韻には、脚韻、頭韻、押韻の3種類があります。ラップは脚韻ですね。 

押韻というのは、語句の上に同一音や類似音が一定間隔で配置されたものを指します。つまり「千曲川旅情の歌」がそうなのです。この歌は日本で初めて韻を踏んだ歌だと言えるのです。  

妻に捧げた1778話 (新潮新書)

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 まとめ~ダジャレ親父はラッパーなのか

ここまで韻について説明をしてきましたが、はたしてダジャレは親父どうなのでしょうか

「布団がふっとんだ」「こんにゃくは今夜食う」「下手な洒落はやめなシャレ」いずれも短いセンテンスの中で、冒頭語と句末をシンクロさせています。つまり頭韻と脚韻を巧みに組み合わせた「ハイパー韻」といっても差し支えないほどの高度な技術を駆使しているではありませんか。 しかも基本、即興なのですから、おそるべしです。

職場の上司が下手な洒落を言って腹立たしく感じても、エミネムが言っていると思えば、愛想笑いのひとつくらいは浮かべられるのではないでしょうか。